「ニヒリズムをニヒリズムする」というのは、「虚無そのものを虚無化する」ということ、つまり「虚無を否定する虚無」と捉えることができます。数学的な「マイナス×マイナス=プラス」のように、否定の否定が肯定につながるのではないか?という期待があるわけですね。
でも、哲学的には、そう単純にはいかない理由があります。いくつかに分けて説明します。
1. 数学のルールと哲学の違い
数学では「−1 × −1 = 1」は形式的な規則です。これは数の構造における定義であって、「意味」や「感情」は伴いません。
一方で、ニヒリズムは「意味や価値が存在しない」という世界観に関わるため、そもそも「意味をかけあわせて正になる」ような保証が存在しないんです。つまり、ニヒリズムは「意味」を解体してしまうので、「かける」対象が最初から空っぽ。
2. 「否定の否定」が肯定につながるには前提が必要
ヘーゲル的な弁証法では、「否定の否定」は新たな肯定(アウフヘーベン/止揚)へとつながる可能性があります。
でもこれは、もとの命題に価値がある、あるいは乗り越える対象がある場合に成立します。
ニヒリズムは「すべては意味がない」と始まるので、それ自体が「無の平原」なんですね。何を乗り越えるかという地盤が存在しないと、否定の否定すら空回りしてしまう。
3. 「肯定」は感情的・実存的な経験である
ニヒリズムの中にいて「これは意味がない」「そしてその意味のなさすら意味がない」と二重否定しても、「よし、生きよう!」という実感が湧かないのは、論理的整合性と人間の感情は違うからです。
つまり、肯定とは理屈ではなく、「生きてよかった」「それでも美しい」といった実存的な経験の中にあるもの。そこに到達するには、論理ではなく跳躍(キルケゴール的な)や、創造(ニーチェ的な)が必要になる。
4. ニーチェの超人思想と「新しい価値の創造」
ニヒリズムを超えるには、「意味がない」ことを受け入れた上で、自分で価値を創るしかない。ニーチェの言う「超人(Übermensch)」は、神が死んだ後の世界で、自分の価値観を生きる存在です。
これはまさに「ニヒリズムをニヒリズムした先に生まれる肯定」かもしれません。でも、それはただの論理的な打ち消し合いではなく、創造的行為です。
まとめ
「ニヒリズムをニヒリズムしても肯定にならない」のは、 ニヒリズムが意味を壊す力なので、論理の中で肯定には至らないから。 本当の肯定は、そこから自分で価値を生み出す創造の中にある。
もし気が向いたら、ニーチェ『ツァラトゥストラ』や、カミュ『シーシュポスの神話』なんかもおすすめです。どちらも「虚無の中でどう肯定するか」に真っ向から取り組んだ書です。