架空の杜

The journey is the reward.

一回転して全肯定

ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。

しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長くは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑にとどまることに疲れて、「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。彼らはこういうふうに推論した。

「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている。人間の知覚から独立して存在する客観的実在は存在しない。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である 」

こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。

https://toyokeizai.net/articles/-/611505?page=2

他責思考の無意味さ

自分「上司が無能。技術がないのにしゃしゃり出てきて邪魔である。」
相手「どうしてそうおもうの?無能だという根拠はあるの?」
自分「ある。いままで技術的な問題で、3回も尻拭いさせられた。尻拭いしている時に、サービス残業も示唆したし、反省も感謝もなかった。思い込みではなくて結果がはっきりしているから事実だよ。」
相手「結果がはっきりしているなら仕方がない。でもそんな人はたくさんいるんじゃないかな?そればかり考えていても、生活に支障がでるだけだよ。自分にメリットは何もないでしょ?」
自分「・・・そうだね。実際、自分は今悩んで、休職している。」
相手「世の中には、無能な上司はたくさんいる。でも悪いのは、その人であって、自分じゃないよね?無能な上司が悩むなら分かるけど、自分が悩むのはおかしくない?」
自分「でも、無能な上司は悩まないよ。」
相手「悩ませたいの?上司が悩んだところで、自分にメリットは生まれないよね?悩ませたとしてところを見て、自分はスッキリするの?」
自分「多少、する。」
相手「スッキリしたとして、その後どうなる?」
自分「・・・わからない」
相手「意図的に邪魔されるようになるかもしれないし、評価は下がるかもしれないよね?余計ストレスがたまるんじゃないかな?デメリットの方が大きそうだけど、どうだろ?」
自分「そうかもしれないけど。納得できない。」
相手「今こうやって、自分が悩んでいる時間も、上司が賢くなるわけじゃないよね?時間の無駄じゃない?無能な上司のことを考えて、ストレスためて、時間をかけて、メリットはひとつもないよね?」
自分「・・・」
相手「上司のことを考えても、いきなり上司が素晴らしくなるわけじゃない。自分が悪いわけじゃないのに、自分がストレス感じているよね?これはおかしいくないかな?せめてこうやって悩む時間はなくそうよ?」

応報を与える

他者の悪行為は責めるくせに、自分は同種の行為を他者に対して平気でやるタイプの人間は、
自ら己を「半人前」だと自己規定しており、だからこそ許されるはずだとタカをくくっているわけですから、
その種の人に対しては当たり前の応報を与えることで、「あなたは一人前だよ」と教えてあげるべきです

伝統的に存在する制度や慣習

伝統的に存在する制度や慣習というものは長年にわたってなされてきた多くの微調整の産物であり、その制度や慣習が存在する理由をはっきりと述べることはできない場合でも、実際には存在するに至るなにかしらの理由が存在すると見なすべきである

人間の苦しさ

人間の苦しさというのは他人と比較して自分がいかに未熟で、不幸で、無能で、不運で、イケてないかを思い知らされ、悩み、怒り、嘆き、しかし涙がこぼれないように上を向いて歩こうという言葉に凝縮されているように思うんですよ。