架空の杜

The journey is the reward.

梅雨と宝塚記念

例年、宝塚記念は梅雨入りしてからなので天気が悪いことが多い。でも大抵は曇天で当日はなぜかギリの良馬場か稍重ぐらいで、今日のようにしっかりと雨が降った記憶はあまりない。今日はスタート直前まで雨が止んでいたのに、1000m通過ぐらいに土砂降りになった。そして重巧者のブローザーホーンが先頭で駆け抜けると、なぜか雨は小降りになった。2分ちょっとの間に降って止んでと変な天候だった。

重や不良馬場で「この馬はそういう馬場が得意」という予想家の言葉を信じて馬券を買って当たった記憶がない。それなのに今日は指数的に抜けた二頭がいたにもかかわらず、降雨のため過剰人気ではと思われた馬がワンツーフィニッシュと、ある意味分かりやすい結果になった。

こんなにストレートに馬場適性が勝敗に繋がったのは、今年は京都開催だったからもしれない。阪神だと坂があるので、天候の有無にかかわらず実力馬が掲示板に載るのだが、京都だと降雨で足元が悪くてもずっと気分よく走れるかどうか、そういうのが鍵になったようだ。

今年のG1は勝利ジョッキーが全部違うという珍事が起きている。流石に今日で途切れると思ったら菅原騎手が初G1勝ち。一時はルメール・川田・来日騎手、偶に武豊だったのだが、様変わり。

将棋も藤井八冠が七冠に後退。NHK杯でも木村九段が西山女流に負けた。至るところで下剋上がおきているようなイメージがある。札幌記念まで馬券はお休みだが、秋競馬は積極的に高配当を狙う買い方をしてみたい。

今日のプレイリスト

music.youtube.com
これまで作ったプレイリストから漏れた洋楽を思いついた順番に突っ込んで、一応曲順を整えたものです。半分以上知っていた貴方はワタシと同世代です😊

女性のエロス

そしてね、女の性欲って対象化しない。女ってね、性的に魅力的である自分自身に欲情するの。例外はあるけれど、全人類の性的対象は女であって、だから男は女を性的対象化するんだけど、女は自分が女だから、自分を性的対象化するわけよ。女が自分を魅力的にすることにせっせとコストかけるのは、それが性的快感だし、それが性的大コーフンだからなのね。
お金とかイケメンってのは、自分の性的魅力をカサ増しするポイントツールに過ぎないの。

そして、女のセックスのクライマックスは当然出産だから、セックスの現場ってどう足掻いても女にとっては前戯に過ぎないのね。女にとって本当に自分をイカせてくれるのは出産した子供だから。
その途中にしか過ぎない前戯だけの男が、お金持ちだろうがイケメンだろうが、何ほどのものでしょうか?ってのが本音よね。

大方の苦悩

”我々の大方の苦悩は、あり得べき別の人生を夢想することから始まる。
自分の可能性という当てにならないものに望みを託すことが諸悪の根源だ。
今ここにある君以外、他の何者にもなれない自分を認めなくてはならない”

by 森見登美彦

久保利明 九段の名言

・相手が誰とか、羽生さんとか藤井くんとか意識しない、自分は考えない
・相手が四段だろうが名人だろうが、結局は自分の力を出しきれるかどうかが大事
・出し切って仮に負けてもそれは仕方ない
・100%の実力を80%しか出せなくて負けると悔いが残る
・自分は100%出し切ろうとする戦い方を目指しているので、相手がどうのこうは無い
・勝ちたい勝ちたいと思っていた時期もあったが結果は出ない
・相手ではなく自分
・勝負の世界は100%実力を出しても100%勝てるわけがないので割り切っている
・相手と戦っていない、どの対局でも自分と戦っている
・例えば研究会で飛車得くらいになるとこんな大差でそれ以上やっても意味がないとか思ってしまうと、もう勝負には勝てなくなる
・将棋は大差になろうが最後までやって価値があるし、それが頑張り
・他人と違うことをしたくて将棋の世界に入った
・将棋は結局は中盤終盤の勝負になるので、振り飛車で序盤ソフトの価値が低いなんて全く気にしていない
・他人と同じ事をやってもつまらない
・人と違うことをやっていく好奇心は子供の頃から変わらない
・将棋の勉強はプロにとっては当たり前なので、努力だとは思わない、楽しい趣味みたいなもの
・嫌なことや苦手なことをやることが努力、将棋の勉強を苦にしたことは一度もない
・師匠からは君には将棋の才のはないが努力する才能はあったと言われた
・将棋にはこうすれば強くなるというマニュアルはない

自分は大衆の一人

人は多くの場合、自分が「大衆」であることを認められず、平均よりは上だろうと思い込んでいる一方で、不安から、常に他人の言動ばかりを気にしている。そういう性質は、投資行動においても表れます。投資とは本来、「自分を含む大衆」が金融市場の動きにどう反応するかを考えるゲームです。自分が気づいていることは、だいたいみなが気づいているのですが、そこで客観的になれない。

一回転して全肯定

ポストモダニズムは「直線的な物語としての歴史」や「普遍的で、超越的なメタな物語」を「西欧中心主義」としてまとめてゴミ箱に放り込んでしまった。歴史解釈における西欧の自民族中心主義を痛烈に批判したのは間違いなくポストモダニズムの偉業である。

しかし、「自分が見ているものの真正性を懐疑せよ」というきびしい知的緊張に人々は長くは耐えられない。人々は「自分が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」という自己懐疑にとどまることに疲れて、「この世のすべての人が見ているものには主観的なバイアスがかかっている」というふうに話を拡大することで知的ストレスを解消することにしたのである。彼らはこういうふうに推論した。

「人間の行うすべての認識は階級や性差や人種や宗教のバイアスがかかっている。人間の知覚から独立して存在する客観的実在は存在しない。すべての知見は煎じ詰めれば自民族中心主義的偏見であり、その限りで等価である 」

こうして、ポストモダニズムが全否定した自民族中心主義がみごとに一回転して全肯定されることになった。これが「ポスト真実の時代」の実相である。気の滅入る話だが、ほんとうなのだから仕方がない。

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