今日もやろうと思っていたことの半分もできなかった。。。という日が続くようならば、そもそもやろうとしていることが多すぎる。理想が高すぎる。まずはその理想を破壊する必要があるため、逆に「徹底的にやることを減らす」ことから始めたほうがよい
ラブは成就してもコメディは終わらない
無事相思相愛を確かめ合った白銀とかぐや様ですが、少女マンガと違いそこでは終わりませんでした。ヤングジャンプ掲載漫画であるからには次の段階まで至らないと終わらない(と冒頭で石上がメタファーを種明かししていました)感動のファーストキスに地雷を組み込むとは作者は天才です。
このコマは12月21日の四宮別邸での早坂との絡みです。クリスマス直前ですので、かぐや様のオーバーランが次への伏線となっています。赤坂アカという漫画家はこのあたりの話の仕込みが本当に上手いです。
アニメ一期が絶賛放映中に作品が大団円を迎えるわけないのです。アニメが2期か3期までやるとしたら最終回は前々回でしょう。しかし商業作品としては、まだまだ終わらないのは宿命。それも無理矢理引き延ばすのではない自然な感じに誘導しているのが見事です。更に、フラグが立った石上とミコちゃんの行方も楽しみです。
今日の箴言:晩成なんて嘘
人間は年をとったぐらいでは成長なんかしない
おじさんが落ち着いて見えるのは元気がないから
この齢になったからいえるのですが、子供のようなメンタリティのオッサンなんて掃いて捨てるほどいます。。
スクリーンショットが検閲される世界
なんか難儀な法律が検討されているようです。実際は個々人のスクリーンショットの検閲なんて無理なので、権利者側が恣意的に気にくわないネット上のコンテンツを排除するための法的根拠として使われるのでしょうね。韓国でポルノサイトが国家によって全遮断されたことが話題になりましたが、これでは隣国のことを嘲笑する資格もありません(-_-;
現政権って、本当にロクなことをしていないのになんで支持率が40%を割らないんでしょうね。トランプの支持も底堅いですし、欧州のポピュリズム政党も何があっても揺るがない岩盤がある。厭世的になってしまいます。
藤原書記
第5話まで放映しましたが、全て神回という創り手の熱量がスゴいです。メイン三人の声優の演技が本当に見事です。どんな分野でもプロってスゴい。
今日の箴言:出会いは偶然 別れは必然
「遺伝でないものは環境」「環境でないものは遺伝」と考えがちだが
じっさいはまず「偶然と偶然でないもの」があって,
偶然でないものの中が「遺伝と環境」に分かれているのだと思う
今日の箴言:確証バイアス
人間は、「自分が正しいと思っていること」が正しいという証拠ばかりを探し、「自分が正しいと思っていること」が間違っているという証拠は、なかなか目に入らない。
この動画撮影から、ちょうど50年
昨日がルーフトップコンサート50周年なら、今日は室内ライブパフォーマンス50周年ですね。この動画が撮影されたのが1969年1月31日です。室外ライブに向いていない曲をこの日に総仕上げとして演奏したのですね。この日をもって一ヶ月続いたいわゆるゲットバックセッションが終わることになります。
覇権アニメ:かぐや様は告らせたい
原作が大好きな「かぐや様は告らせたい」のアニメ化が大成功して2019冬クールの覇権をとりました。原作の良さを100%生かして、さらにアニメならではの付加価値をつけることに成功したのですから、当然の結果でしょう。スペシャルEDテーマの下記の曲も大ブレイクしています。
youtu.be
原作者がJラップ好きなので、いつかは突っ込んでくるとはおもっていましたが3話で出てくるとは、やられました。
丁寧に創ってあるだけではなく、視聴者の心理を忖度する力もスゴいです。3話にして冒頭の前振りを早送りにしたり、イイハナシ系の次にこのEDを配置するとか2019年のアニメですね。一方、BGMにベタで少し旧い感じの曲を配置するとかバランス感覚もよいです。
主要三人のキャストもド嵌まりです。CV発表時は地味な配役だと一部で不満があったようですが、放映後は絶賛の嵐です。この三人の声優さんたちは、この作品をステップにトップクラスにまで上り詰めそうです。
この作品のキモはやっぱり、かぐや様の「お可愛さ」だとおもいます。ここまでテンプレート的に振り切ったお嬢様タイプのヒロインというのは、ありそうでなかったキャラです。ピンクや水色ヘアの美少女に食傷気味のアニメファンには特に新鮮に見えるのではないでしょうか。だからこそテンプレ通りの藤原書記も魅力が倍増するわけです。本当に良くできた作品です。
今日の箴言:問題を複雑にすることを通じて問題を簡単にする
僕がこだわっていた仮説があります。それは本文中にもでてきますけれど、「簡単な話は複雑にした方が話は簡単になる(ことがある)」というものです。
矛盾した言い方ですけれど、最初の「簡単」と二番目の「簡単」はレベルが違います。例えば、「私は正しい」と言い立てている人が二人いて対立している場合を想定してください。どちらかを正しくて、どちらかを間違いと裁定してしまうと話はとりあえず「簡単」になります。でも、「お前は間違いだ」と言われた方がその裁定に納得できなくて、「こんなのは認められない」と騒ぎ立てて、テーブルをひっくり返して暴れ出すと、話は全然「簡単」ではなくなります。
白黒の決着を付けずに、「どちらもちょっとずつ正しくて、ちょっとずつ正しくない」というふうに話を複雑にしてしまうという手もあります。そして、「どうです、両方でちょっとずつ歩み寄って、『双方ともに同じくらい不満な解』で手を打つというのでは」と持ちかける。「双方とも同じくらいに不満」で、正しくもないし、間違っているわけでもないという中途半端なあたりを「落としどころ」にして、「あと、細かいところは、そのつど調整して」というふうにしておく。話は全然解決していないのですけれど、これが持っていきかたがうまければ、双方ともふくれっ面をしながらも、「とりあえずまあこの問題はしばらく放っておいていいか」ということになる。最終的かつ不可逆的な解決にはほど遠いのだけれども、とりあえずは問題をめぐる争いはクールダウンする。当事者たちは別のことに知的リソースを注ぐことができる。そして、時間が経つにつれて、解決不能と思われていた問題が、別の条件の変化によって、どうでもよいものになってしまったりするんです。ほんとうに。