架空の杜

The journey is the reward.

駄アニメの主人公は存在感が空気で視座が不安定である。

7月になってまたワラワラと新アニメの放送が始まった。残念なことに今のところ続けてみたいと思えるアニメが皆無である。何がつまらないのだろうと考えた。一つ思い当たった。今クールだけではなく不発に終わったアニメの大半は主人公が無個性もしくは類型的過ぎるのだ。

創作の基本は一人称か三人称

別に私は創作家ではないが、物語の作り方の基本に一人称か三人称かの違いがあることは知っている。人気のあるアニメは一人称・三人称という視点の置き方が明確である。一人称で大成功したのが「涼宮ハルヒの憂鬱」である。一貫してキョンの一人称を貫いたことが、この作品を面白くしたことに異存のあるアニメファンはいないと思う。前クールで私が大いに楽しんだ「四畳半神話大系」も「私」の一人称を貫徹したが故に名作になったと思っている。
逆に三人称に徹したアニメには「けいおん!」がある。脚本家によって若干のブレがあるが、基本は(特に二期は)第三者視点からキャラの戯れを「眺める」作品であるといえるだろう。蛇足ながらけいおん!の一期で賛否が分かれた「鬱回」は、律なり梓の一人称視点が混じり込んでいて、それに違和感を感じた人が多かったからだと推察する。

悪いお手本「オオカミさんと七人の仲間たち

この作品が一番酷い例として判りやすいので挙げてみる。

  1. 一応主人公がいるみたいだがキャラが全く立っていない
  2. オオカミさんがヒロインのようだがヒロインを眺める視座が見当たらない。
  3. それを補完する第三者視点として「天の声」があるが、天の声とキャラのボイスが被ったりしていて混乱が著しい。

要するに、見ていてどこに視点おいていいか落ち着かないから、作品に没頭できないのだ。

その他にも

最近の萌えアニメは、ゲームの影響か、主人公の男性キャラが個性的な複数の女性キャラと戯れるという設定が多い(ていうかそればっかり・・・)、その主人公が揃って無個性な受動的弱キャラとして登場する。その割には「異常な女性キャラ」に対する受動的弱キャラとしてのリアクションの描写が貧相すぎる。ゲームではこういった主人公の方が物語を創作しやすいのだろう。しかし、アニメは物語であるから、主人公のキャラが弱すぎると、作品を俯瞰する視座がどこにあるのか迷子になってしまいやすい。結果として一人称視点なのか三人称視点なのか判別できない作品が死屍累々と量産されているのが現状である。

無個性な男子が複数の個性的美少女と戯れるアニメを喜ぶのはヲタだけ。

巻き込まれ型の主人公であるならば、キョンぐらい自我がハッキリしてモノローグを喋りまくりぐらいでないと、お話としてのヒロインたちのエキセントリックな言動が、文字通り絵空事に感じられてしまって面白くない。Angel Beats!が駄作だったのは結局のところ音無の視座に視聴者が同化できなかったことが一番の原因だろう。ゲーム世代のシナリオライターは一度、基本的な小説作法の読本でも読んだ方が良いと思う。