架空の杜

The journey is the reward.

動物化するポストモダンを読んで(3)

うまく文章を切り取ることが出来ないので自分の言葉で書きますが、東先生によるとポストモダンにおいて(特にオタク系が消費する作品において顕著なのは)物語の構造がツリー・モデルからデータベースモデルに変わったと書かれておられます。ツリー・モデルというのは物語の背後に「大きな物語(作品の主題)・深層」があって、作品の個々のエピソードは「表層にすぎない」だから表層を丹念に分析することで作品の本質に近づくことが出来るという考えです。
一方データベースモデルというのは「大きな物語」の存在を前提としてではなく、多重・多層化した物語の深層が作品の個々のエピソードに直結していうという考え方です。表層と深層が等価値であり、それが故に読者は物語をそれぞれが読み込み再構築できるのです。
私がid:tanabeebanatさんの展開する「ハヤテのごとく!」論に違和感を感じるのは、あくまでもツリー・モデルの構造にしたがって作品を分析しようと試みられている点にあります。

奇しくも問題になった暫定初回の「ときメモファンド」事件ですが、これは畑健二郎先生がときメモに代表されるギャルゲーに親和性が高いことを表しています。ときメモには世界観と厳密に定められたキャラクターだけが存在して「物語」は用意されていません。物語は読み手がゲームをプレイする中で自身の内部に生成しつつ主観的に作り上げる形となっています。これはまさしくデータベースモデルを体現したゲームです。
ハヤテのごとくにはこのときメモと同じ構造で作品世界が創造されています。ときメモは様々な個性を持った女の子とプレーヤーが脳内補完しながら物語が生成するというプレーヤーの想像力をある意味信頼したシステムでした。それがギャルゲーの嚆矢として歴史に名を残すゲームになった所以です。それについて畑先生が極めて自覚的なのは表4(裏表紙)におまけで描かれている「バッド・エンドとかノーマルエンド・イベント」といった記述ですね。リゾーム化した作品世界では物語は一直線に進むのではなく、あらゆる方向に転がる可能性を秘めています。そして、その点において読者にどこまで「物語を読み込むことによって自分なりの物語を生成するか」という読者の想像力に委ねた作品なのです。
実はこの点については赤松健も自覚的ですが(先般のロングインタビューで述べておられました)彼はそこまで読者に委ねることを躊躇っているのですね。「最先端を行きすぎるとマスの読者がついてこれなくなる」と彼は自覚的に語っています。
散漫になってきたのでまとめますが、「ハヤテのごとく!」は大きな物語を用意することなく、ギャルゲーム的に深層と表層が直結した新しいタイプのマンガであり、背後に大きな物語は用意されてはいないのではないのかと・・いうことです。重ねて批判して申し訳ないですが、このマンガは「誰それの成長物語」では断じてないと思います。