架空の杜

The journey is the reward.

今日の樹先生のお言葉

『「自由競争したら格差ができてしまうのは当然であって、みんな違った生き方をすればいいじゃないか」というのがネオコンの主張であるようだが、私はそんなことはありえないと思う。
自由競争から生まれるのは、「生き方の違い」ではなく、「同じ生き方の格差の違い」だけである。
格差だけがあって、価値観が同一の社会(例えば、全員が「金が欲しい」と思っていて、「金持ち」と「貧乏」のあいだに差別的な格差のある社会)は、生き方の多様性が確保されている社会ではない。それはおおもとの生き方は全員において均質化し、それぞれの量的格差だけが前景化する社会である。
そのような均質的社会は私たちの生存にとって危険な社会である。私はそう申し上げているのである。
それは単に希少財に多数の人間が殺到して、そこに競争的暴力が生じるというだけでない。成員たち全員がお互いを代替可能であると考える社会(「オレだって、いつかはトップに・・・」「あたしだってチャンスがあれば、アイドルに・・・」というようなことを全員が幻視する社会)では、個人の「かけがえのなさ」の市場価値がゼロになるからである。
勘違いしている人が多いが、人間の価値は、そのひとにどれほどの能力があるかで査定されているのではない。
その人の「替え」がどれほど得難いかを基準に査定されているのである。
現に、「リストラ」というのは「替えの効く社員」を切り捨て、「替えの効かない」社員を残すというかたちで進行する。どれほど有能な社員であっても、その人の担当している仕事が「もっと給料の安い人間によって代替可能」であれば、逡巡なく棄てられる。
人間の市場価値は、この世に同じことのできる人間がn人いれば、n分の1になる。
そういうものなのである。
だから、人間的な敬意というのは、「この人以外の誰もこの人が担っている社会的機能を代わって担うことができない」という代替不能性の相互承認の上にしか成り立たない。
だが、競争社会というのは、全員の代替可能性を原理にしている社会である(だから「競争社会」は必ず「マニュアル社会」になる)。
そのような社会で、個の多様性やひとりひとりの「かけがえのなさ」への敬意がどうやって根づくだろうか。』

私が内田樹先生に傾倒しているのは、ネット論客にありがちな独我論に陥らず、血の通った現実の世界から常に本質を見つけ出そうとされているからです。師と仰ぐ人との直接交流をもち、親友だと胸を張っていえる友人をもち、多くの学徒から師と仰がれている。ネット論客の多くに欠けているものを全てお持ちなんですね。内田樹先生への反論は概ねルサンチマン臭漂うものばかりであるような印象を私はもっています。