架空の杜

The journey is the reward.

動物化するポストモダンを読んで(1)

オタクたちが社会的現実よりも虚構を選ぶのは、
その両者の区別がつかなくなっているからではなく、
社会的現実が与えてくれる価値規範と
虚構が与えてくれる価値規範のあいだのどちらが
彼らの人間関係にとって有効なのか、
例えば、朝日新聞を読んで選挙に行くことと、
アニメ誌を片手に即売会に並ぶことと、
そのどちらが友人たちとのコミュニケーションをより円滑に進ませるのか、
その有効性が天秤にかけられた結果である。
その限りで、社会的現実を選ばない彼らの判断こそが、
現在の日本ではむしろ社会的で現実的だとすら言える。
オタクたちが趣味の共同体に閉じこもるのは、
彼らが社会性を拒否しているからではなく、
むしろ社会的な規範がうまく機能せず、
別の価値規範を作り上げる必要に迫られているからなのだ。

私はアニメ誌を片手に即売会に並ぶことはしませんが、社会的現実が与えてくれる価値規範からの疎外感を思春期からずっと負い目に感じていたので、虚構が与えてくれる価値規範に居場所を求めていることは間違いないようです。例えばここで「ネギま!」や「ハヤテのごとく!」について語ればキーワードによって一見さんも多く見に来てくれますし、自分の虚構に対する嗜好性が似た人と交流することも出来ます。もう一つの趣味の競馬でも同じことが言えます。私は父性の著しく欠如した父とファザコンの母に育てられましたので、リアルな社会的現実の中にアイデンティティを求める発想すらなくローティーンの頃から虚構の世界に耽溺していました。そしてその性癖は不惑が近くなった齢に達しても、失職したことにより、より悪化していると言えます。まぁ、「それの何が問題なの?」と問われれば答えに窮するのですが・・・