架空の杜

The journey is the reward.

Dream

私は「夢」について語ることに酷く嫌悪感を持っている。下手な夢をもったばかりに挫折の多い人生だった。「夢」という言葉は裏返せば「現実ではない、そうなるかわからない」といったネガティヴな前提の下に語られるものである。少なくても子供以外に夢を語らせるとそうだ。
 死を直前にした老人が夢を見るだろうか。そして三十七歳という妙齢にして老人の心境をもち夢を持てない人間は立派なのか諦念に囚われた愚人なのか。諦念の中に横たわる静かな現実肯定が私の最も欲する夢である。

過去に想像力を持たない子供の夢と未来の可能性が閉ざされ過去の自分に夢を見る老人。せめて甘い過去に浸れる老人となるように生きながらえていくのか。

過去は悔恨、未来は絶望と考える人間に夢は縁がないか。後ろ向きな思考に溢れた制御不可な己の思考。もはや夢とは縁遠く、とりあえず不安の少ない状態に自分を導くことばかりを考えている。三十七歳の自分にとって夢とは不安要素のより少ない状態に他ならず、それを夢と名付けてよいものか・・

夢とはそうなったら自分が幸福であるだろうという妄想にすぎないのではないか。己をマイナスの座標軸から俯瞰して(つまり現実否定から発して)プラスの状態を望む。夢を語るということは子供でない限りニヒリズムではないか?

たとえばこの文章を書いている今、私は夢の中にいるのではないか。責任を伴わない文章を書き散らすのは昔から得意だったが、自分という人間を値踏みされるために差し出す文章を書いている私は不幸か、そうでもない真剣に文章を綴る行為は楽しい。

陽光溢れる広い部屋に置かれた愛すべきオーディオと溺愛するディスクたち、今が夢の中だといえば夢の中だ。悪夢だって夢には違いあるまい。