架空の杜

The journey is the reward.

樹 vs kagami


その世界では人は働きたいときに働き、自分が必要とする以上に
働いた収穫(余剰)をただで誰かにあげる(使いきれないものを
持っていてもしょうがない訳です。
人がそうしたければ(好きなら)
別に貯めこんでもいいのです。意味がないけれど
働きたくない人は一生働かなくても構わない。その人達は
人々に余剰があってそれを貰えるときは、それで暮せるし、
もし社会に余剰がなくなっちゃった時は、食べれなくて死んで
しまうかもしれないけれど、その時は別に死にたくないから働くのも
働きたくないから死ぬのも、全部自由。働くことと働かないことは
その世界では両者とも価値判断的な意味はなく、差異しかない。
ここで重要なのは、この世界には目的も意味も支配もない
と云うことです。人がそれぞれ自分の好きなことをやること
自由に生きること、ただそれだけなのです

目的や意味は、常に”明日の幸せ”の為に動く。
でも、その明日は決してこないのです。
目的や意味があること自体が、常に幸せを
先送りし、今がどんなに物理的に満たされた状態
であっても、精神的に欠乏した状態、幸福の前段階
に人間を縛りつけて、人間を鼻先に人参を吊るされた
馬のように、幻影を持って操り続けるのです。

ニーチェ信者にありがちなルサンチマンの回廊にkagami先生も迷い込んだようです。内田樹先生は倫理の重要性を強調されますが、鬼畜陵辱系のゲームを愛するkagami先生は倫理の臭いをかぐと冷静さを失いがちです。目的も意味も信じられない、自分勝手に自由に生きる人たちだけで構成された世界が、より良い世界だとは私には到底思えません。今の幸福を最大限化することも大切ですが、未来の幸福を願わずして人類の前進はありえないではありませんか。