架空の杜

The journey is the reward.

ネット共同幻想論を否定するのは欺瞞

いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか - Thirのノート
共同幻想あってのインターネットだと俺は思う。共同幻想の中にアイデンティティを見いだしている人と、そうでない人の軋轢はまだ当分続くと思うし、むしろこれからが本番なのではないか?

共同幻想のコアにいる人たち

ウンザリするほど繰り返されている言説だけど、いわゆるロストゼネレーション、就職氷河期世代の人たちであろう。現実社会からの疎外感を感じている人がインターネットという共同幻想に自我を投影するのは、所詮ひとりぼっちでは生きていけない人間が行き着く先としてはごく自然だ。ネットでルサンチマンを蕩尽しているから、「何で彼らはデモの一つもおこさないのだろう?」と団塊の世代の論客を中心に疑問を持たれているように、リアル社会で何らかの行動をおこせないという側面はある、というよりそれこそが問題なのかもしれない。

心の壁・社会の壁

「いい加減、インターネットという共同幻想から目を醒ましたらどうですか」という言葉遣いに逆説的に、ネット共同幻想を嘲笑する社会の本流層への深い苛立ちを感じる。そもそも共同幻想埒外にいる人たちには、ネットの黎明期には彼らのことは視界に入っていなかったし、ネット共同幻想について言及されるようになった近年こそ、ネット社会がより厳然と存在感を示しつつあることの証左である。ネットにアイデンティティを委ねる人と、そうでない人のキャズムが問題なのだ。そこを誤魔化してはいけない。

ネット=ツールに過ぎない論は乱暴な議論

そういう言説はITバブルが崩壊するまではネットで儲けようとした魑魅魍魎たちのエクスキューズであったし、共同幻想にどっぷりとつかりながら「ツールに過ぎない」なんて嘯いている連中は、欺瞞に満ちていると思う。こういった言説に安易に同意することは視野の狭さと浅薄さを世間に晒しているようなもので著しく爽やかさに欠けている。

共同幻想に生きる人たちにとってネットは手段ではなく目的なのだ。

ネットにつなげば共感と感情の同期というネットの埒外では得られないものがあって、それに浸らないと自我を維持できない人たちというのは間違いなく存在する。そして自我を維持する手段が目的化して、そこから逃亡できない社会層がより顕わになったのが近年である。まぁ自分がそうであるというのが論拠なのだが(笑)

差別

事件が起こるたびにネット社会に原因を求める風潮が瀰漫していることを安易に許容してはならない。マスコミをコアとして、ネット社会に身を委ねざるを得ない人たちに対する慈愛が著しく欠けていることが問題だ、もっといえば明らかな差別である。ネットをツールとしかとらえない人達とネットの共同幻想に救いを求めざるを得ない人との軋轢は、これからが本番である。差別と戦うのは人権の基本だ。それにはまずネット社会にズブズブに浸っていながら、「俺はメタ的立場にいて埒外にいる」という欺瞞に満ちた言説に安易に同意署名することを慎むことから始めなくてはならない。