「我思うゆえに我あり」、で始まった近代哲学の根本からの見直しにあったようです。
ソシュール。
我思うって言っても、それは言葉で思われているんだよね。
そうすると、その言葉とその言葉を生みだした価値観に最初から支配されているよね
フーコー
その時点で思うことは、語られた歴史の中で思うことだ、
すでに既成の価値体系のなかに囚われているよね
バルト
願望、禁止、命令、判断のない主観の介入を欠いた無垢な言葉、
何も主張せず、否定もせずただそこに屹立する言葉で、無根拠に耐えることから考えよう
レヴィ
自分だけは利口だと思うとこが致命的だね、特に自分が利口だと思っている奴ほど救いがたい
ラカン
自分も一種の狂気がなければなりたたないんだよね、狂気の上に語られる「知」ってなんなのさ
結論
だから、もう自我と主体とかの論議は不毛だから置いておいて、これからは、思考を形つくる「規則」と「構造」について考えよう!